今回はライン川下りとロマンチック街道を楽しむことに。
自宅からはMKのアルファードで伊丹空港へ、羽田からルフトハンザでフランクフルトへ。バスに乗り換え、ライン川河畔の町リューデスハイムへ。
リューデスハイムに着いたのはもう夕刻で、ホテルにチェックインを済ませて荷物を部屋に置くなり、夜の町へ。リューデスハイムは可愛く、とても美しい温かみを感じる街。一回りした後、レストランや酒場が軒を連ねる「ツグミ横丁」のビアホールへ。
今回の旅の道づれは、岡山で開業されている医師夫妻。しかも消化器内科の大先輩だ。添乗員は頼りになりそうな、30代の恰幅のいい男性。まずはビールで乾杯!うむ、むちゃくちゃ美味い!なんだかビールの味が濃いい!長旅で喉が渇いていたがけでは説明できないうまさだ。あとで知ったのだが、ドイツでは国内販売用のビールには防腐剤が入っていない。国外販売用はその限りではないとのこと。周りを見渡すと、国内外からの観光客であふれていた。正面には生バンド。とても元気な70〜80代の白人男女は、飲んで、食べて、ダンスをしているのであった!






翌朝、鳥の鳴き声で目を覚ますと外は快晴。朝食を済ませて出発までの時間、ホテルの庭でスナップ。おもしろいものを発見。なるほど周囲はワイン畑だ!ワインの樽風に洒落ている部屋があるではないか!ただのオブジェかと私も思ってはいたのだが、、、。あろうことか、由美子はスナップをとっている最中にExcuse me!とか何とか云いながら、ガバッと扉を開けたのであった。中からおじさんが、’Guten Morgen!’だって。’Sorry’とすぐに扉を閉めたのだが、由美子の話では、中はワイン樽をそのまま使った部屋であったとのこと。


ライン川クルーズ船に乗るまでの小一時間、リューデスハイムの街をぶらぶら歩き。



ライン川クルーズ
ライン川はスイス・アルプスに源を発し、スイス・オーストリア・リヒテンシュタイン・フランス・ドイツ・オランダ6か国を経て北海にそそぐ。全長1320kmにおよぶ国際河川である。以前、オーストリアでドナウ川クルーズを楽しんだことがあるが、ドナウ川は「母なる川」、ここライン川は「父なる川」とも呼ばれる。
ライン川のゆったりとした流れを船は下っていく。両岸には、ワイン畑といくつもの古城。リューデスハイムは古くからライン川の水運とワインの醸造で栄えた町であるが、中世の時代、小領主たちは川を利用する船から通行税をとるために競って城を造ったという。








ライン川で最も有名なお話が「ローレライ伝説」。もともとローレライはライン川右岸の水面から130mほど突き出た岩山である。もともとの「ローレライ伝説」はざっと次のようなものである。船がこの岩の近くを通ると岩の上から美しい歌声が聞こえてくる。あまりの美しさに聞きほれていると、船を操舵することも忘れ船が座礁・転覆して船乗り達は死んでしまうというものである。本当のところは、昔はこのあたりは川幅が狭く急流であったために船が転覆する事故も少なくなかった、ということらしい。
しかし、伝説というものは進化するものである。物語は、人々の心に響くよう「美しく」「少し残酷」なものに変化するのである。ローレライという美女がいた。周囲の男たちを虜にしないではおかない美貌だが、しばしば男の面目をも失わせることもあった。魔女裁判にかけられ、そのころ恋人の裏切りにあったローレライは死を願うが、裁きの結果、修道院送りとなる。その道中、恋人の城を一目見たいといって岩に立った彼女は川へ身を投げるのであった。川の精霊となったローレライの歌声は船乗りたちを魅了し破滅へと導くというものである。少し時間を持て余すライン川下りには、この話のほうが向いている。
脚注)シケ面をしている写真は、ローレライがただの岩山と分りがっかりしている場面







ラインフェルス城
ローレライの岩山に最も近い街であるザンクト・ゴアで船を降り、丘の上に立つラインフェルス城のレストランへ。ピアノの生演奏が流れる中、窓際のテーブルに案内されライン川を見下しながらの昼食。メニューはハーブのクリームスープ、カワカマスのフライとアイスクリーム。カワカマスはあっさりとした白身の魚で、バターとチーズをベースにしたソースといただくのだが、とても美味しかった!









トイレ休憩
一路、バスはローテンブルグを目指す。ドイツの田舎の風景を見ながら少しうとうとしていたが、ドライブインでのお手洗い休憩で完全に目が覚めた!有料トイレで70セントを払い、トイレを出るときに50セントが戻ってくるシステムになっているが、トイレの便器を見てびっくり!トイレの便座が回転しながら洗浄されているではないか!これはとても素晴らしい!「TOTOのウォシュレットとダイソンのお尻乾燥機がつけば完璧だ!」日独英トイレ・コラボプロジェクトとして大いに進めてほしいものだ!




「中世の宝石箱」ローテンブルグ
「中世の宝石箱」ローテンブルグの人気スポット・プレーンライン近くの小さなホテルに到着。夕食までの時間を歩いて街を散策。







夕食はドイツ料理のレストラン・クロースターシュテェーブレ。気取らない店内の雰囲気は、郷土料理と地元のビールを味わうのにはとてもいい。写真はローストしたマウルタッシェンとポークのロースト、ポテトとウィーン風ポークカツレツ。料理の味はややおおざっぱだが、ビールと食べる料理としては、これでもOKか!?付け合わせのフライドポテトの量が半端じゃないし、デザートも繊細さの欠如を量でカバーしている!終わってみればお腹は一杯!!





ローテンブルグは13世紀に帝国自由都市となり商業で繁栄したが、17世紀に三十年戦争で衰退した。そのおかげで中世の街並みがそのまま残ったのであった。19世紀にロマン派の画家によって描かれ、広く世界に知れ渡った。その後、第二次世界大戦には街の40%が破壊されたが、戦後忠実に中世の街並みが再現されている。
ローテンブルグ旧市街は1.2 X 1 Kmほどの城壁に囲まれた小さな町だが、中世の姿がそのまま残る数少ない貴重な街である。
写真は、夕食後の夜の街の風景。





おもしろい伝説がある。この三十年戦争でティーリー将軍率いるカトリック軍にプロテスタント側のローテンブルグは3日で陥落した。ローテンブルグの市長や町の重役たちは処刑され、街も焼き払われることになった。その絶体絶命のピンチの中、ティーリー将軍とカトリック軍を地元名産のフランケンワインでもてなすこととなった。ティーリー将軍はこのもてなしを大いに喜び、もし3.25リットルもある大杯のワインを一気に飲み干すものがいれば、処刑と町の破壊を免除してやろうと提案したのであった。そこで手を挙げたのがナッシュ市長であった。彼は見事に大杯を飲み干しローテンブルグを救ったのであった。これを祝うのが、毎年5月に行われるマイスタートゥルンク(市長の一気飲み)の祭りである。










マルクト広場近くのケーテ・ウォルフト・クリスマスビレッジはクリスマス博物館を併設しており、一年中かわいいクリスマス雑貨が買える。



ローテンブルグの街を歩いていると可愛い看板をよく目にする。ローテンブルグでは看板の高さ・大きさ・場所が統一されているそうだ。さすが、マイスターの国ドイツ、看板も魅力的で凝っている。







木組みの家の街ディンケルスビュール
ローテンブルグのとなり町ディンケルスビュールは、中世には皇帝直轄の帝国自由都市として栄えた。幾多の戦争の中でも被害を受けなかった珍しい街で、今も中世の美しい街並みを楽しむことができる。ディンケルスビュールは円形の城壁に囲まれ、石畳と切妻屋根の木組みの建物が軒を連ねる。
ここにも逸話がある。三十年戦争のさなか、スウェーデン軍にとり囲まれて陥落寸前だったディンケルスビュール。城壁の塔の見張り番の娘ローレとディンケルスビュールの子供たちは、敵の将軍に面会し、町を救ってくれるよう嘆願し慈悲を乞うた。その子供の中に、自分の息子に似た少年を見た将軍は、町を解放したのであった。
7月中旬に10日間にわたって開催されるキンダーツェッヒェ(子供祭り)では、パレードをする子供たちに「街を救ってくれたお礼だよ」と言ってお菓子を渡すそうだ。








ドイチェス・ハウスは15世紀に建てられた7層の木組みが美しい中世の家。数ある木組みの家でも特に美しいといわれ、現在はホテルとレストランを営業している。この日は、このレストランでランチ。
ドイチェス・ハウスは国宝級の建物だが、レストランのなかも中世の雰囲気を漂わせる。街の歴史を現わした壁画や天井の絵・壁の照明は否応なく心を中世にタイムスリップさせる。
メインディッシュは薄切り肉のロール仕立て・ワイン煮込み・ポテト添え、デザートはアップルフリッター・バニラアイスクリーム添え。アップルフリッターはリンゴの輪切りをフライにしたもの。はじめて食べたが、とても美味しかった。





ロマンチック街道最大の都市アウグスブルグ
ロマンチック街道最古かつ最大の町・アウグスブルグはあいにくの雨。市庁舎に避難するように飛び込み、案内されたのが黄金の間。
アウグスブルグは、町の名前の由来となったローマ皇帝アウグストゥスの時代、紀元前15年に軍事拠点として築かれた。15〜16世紀には遠方貿易や銀行業で黄金時代を迎えた。フッガー家やヴェルザー家といった豪商や銀行家は世界史を左右するほどの財力と権力を持ったという。19世紀の終わりにディーゼルがディーゼルモーターの開発に成功したのも、ここアウグスブルグでのことである。








フッゲライ(Fuggerei,フッガー長屋)
16世紀に富豪ヤーコブ・フッガーが設立したフッゲライは、世界最古の社会福祉住宅。500年も前から貧者救済を実践していた人が、ここアウグスブルグにいる。入居資格は、アウグスブルグ市民であること、敬虔なカトリック教徒であること、低所得者であること、罪科がないこと、そして毎日フッガー家のために一日三回祈りをささげること、だそうだ。モーツアルトのお父さんも入居していたという。家賃は一年1ライングルデンで現在の0.88ユーロに相当する。
フッゲライはマルクト広場と市庁舎にほど近い、トラムが走る大通りに面しており、現在も140戸の住宅に約150名が暮らしている。敷地はかなり広い。家賃は0.88ユーロと変わらない。一戸は当時のまま復元されているが、これが救済施設かと驚いた。私は、大きな敷地に平屋建ての老人ホームを建設する夢を見たことがあったが、謂うのも憚れるが、これほどのものは想像すらしていなかった。誰か、日本にもこのような奇特な御仁がいないものか!?








写真は現代のフッゲライの内部。



写真は設立当初の内部の様子。





ノイシュヴァンシュタイン城とルートヴィヒ2世
ルートヴィヒ2世がシュヴァンガウ(白鳥の高原という意)に建てたのがノイシュヴァンシュタイン城(ノイ=新、シュヴァン=白鳥、シュタイン=城)だ。1845年、ヴィッテルスバッハ家・マクシミリアン2世の長男として生まれ、19歳で第4代バイエルン国王となった。ルートヴィヒ2世は超イケメンで近侍させた美少年を愛し、女性を嫌忌していたが、従姉であるオーストリア皇妃であるエリーザベト(シシー)だけには心を許した。シシーの勧めで、シシーの妹であるゾフィーと婚約するが、結局は婚約を破棄してしまい独身を通した。
ルートヴィヒ2世は、騎士伝説を愛し中世に憧れた。16歳の時にワーグナーのオペラ「ローエングリン」を観劇した際には超感動し、てんかん発作を起こしているのでは?と侍従が心配したという。「ローエングリン」は10世紀前半を舞台にした「白鳥の騎士」が主人公のロマンティック・オペラだが、以来ワーグナーの熱狂的なファンとなる。そのような彼が、自分だけの騎士伝説と中世の世界を具現化したのが、ノイシュヴァンシュタイン城である。彼はほかにも城や宮殿を造った。ルイ14世を敬愛し、ヴェルサイユ宮殿を模した城を湖上の島を買い取って建設したりもし、浪費の上に浪費を重ね「バイエルンのメルヘン王」とか「狂王」と呼ばれた。1866年オーストリア側で普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)に参戦し敗戦するが、プロイセンに巨額の戦後賠償を支払う羽目となった。その後、ルートヴィヒ2世は昼夜が逆転した生活を送るようになり、一人で食事し、あたかも客人と話しているかの様に振る舞ったり、夜中にそりに乗って遊んだり、と奇行が目立つようになる。ちょうどその頃、ルートヴィッヒ2世の弟オットーが精神病を発病する。危惧を感じた家臣たちは、ルートヴィヒ2世を精神病に仕立て、禁治産者として廃位しベルク城に幽閉したのであった。数日後、医師のベルンハルトともにシュタルンベルク湖で水死体となって発見されたがが、その知らせを聞いたシシーは「彼は決して精神病ではありません。ただ、夢をみていただけでした。」と述べたという。享年40歳であった。




ホーエンシュヴァンガウ
ノイシュヴァンシュタイン城からホーエンシュヴァンガウ(ホーエン=高地、シュヴァンガウ=白鳥の高原)まで、2頭だての馬車で下ることに。馬車を待つ途中に素晴らしい光景を見た。馬車は登りの山道を上がってきたばかりで、鼻と口から湯けむりを吐いているが、年上の一頭は体じゅう汗ビッショリになっていた。やや若いもう一頭は、弱っている馬の頬に頭を寄せ「大丈夫?だいじょうぶ?苦しいの?私がついているからね!少し休んだらまた頑張ろうね!」と先輩を気遣いながら話しかけていた、と思われる光景であった。馬は本当に優しくて賢いと再認識した。






ノイシュヴァンシュタイン城では霧雨が降っていたが、ホーエンシュヴァンガウでは雨もあがり、ホーエンシュヴァンガウ城の美しい姿を堪能した。この城はルートヴィッヒ2世の父マクシミリアン2世が夏の狩猟のための城として再建した。ルートヴィッヒ2世は弟オットーと、幸せな子供時代をこの城で過ごした。小さな城だが、この城で我慢していればルートヴィッヒ2世も天寿を全うできたのかも?と考えながら、アルプ湖の畔に立つレストランで昼食。




ヴィース教会
ヴィース教会は、ヨーロッパで最も美しいといわれるロココ様式の巡礼教会。ヴィースは牧草という意だが、文字通り、草原の中に立つ美しい小さな教会。中は豪華絢爛で、涙を流したという「鞭打たれるキリストの像」が祀られている。残念ながら、内部の写真撮影は禁止されていた。







ミュンヘン
夕刻ミュンヘンに到着。カールス門をくぐれば、ミュンヘン旧市街。ホテルは宮殿を改装したという格調高いバイエリシャー・ホフ。ホテル前には、マイケル・ジャクソンの銅像がある。ホテルのコンシェルジュが教えてくれたが、なんでも、マイケルはこのホテルを気に入りよく利用したのだそうだ。
夕食はホテル内のレストランGardenで。ペット同伴もOK。レストランの入り口横にはDog barも。
レストランの空間は広く、とても開放的。
給仕をしてくれる女性は生粋のドイツ人らしく、とてもテキパキしていた。いや、しすぎていた。「おいしい?!たのしんでる?!おいしい?!もう済んだ?!」「そう!よかった!OK!」みたいな感じで、少し落ち着かなかった。あれが本当のミュンヘン子なのだろうか?






バイエルンの伝統料理ヴァイスヴルスト
ヴァイスヴルストはミュンヘン名物の白ソーセージのこと。仔牛肉にパセリなどの香辛料を混ぜて作るが、非常に傷みやすい。冷蔵庫のない時代には長い時間保存ができなかったため、「白ソーセージに正午の鐘を聞かせてはならない」と謂われていたとか。現在でもその伝統を守り、昼の12時までしか、白ソーセージを提供しないレストランもあるという。
朝食のバインキングでは、様々なソーセージが並べられている。そのなかで、白ソーセージはお湯の中にぷかぷか浮いた状態で提供されている。このソーセージは、皮は食べない。薄皮に縦にナイフを入れ、中の肉をいただく。他のソーセージと違い、とても柔らかい触感で、肉の味を純粋に楽しむことができる料理だ。多様なソーセージの洗練された食文化には、舌を巻いた。



ニンフェンブルク城
バイエルン州ミュンヘンにあるドイツ最大のバロック建築の宮殿であるニンフェンブルク城は、「妖精の城」とも呼ばれ、ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮であった。ヴィッテルスバッハ家はミュンヘンを拠点にした広大な土地を治めたバイエルン王国の王家。オットー1世がバイエルン公となった1180年以降、1918年まで740年もの間君臨し続けた。ルートヴィッヒ2世も1845年にこの城で生まれている。庭も広大で、どこかヴェルサイユ宮殿とよく似ている。










レジデンツ
ミュンヘンの町の中心にあるレジデンツは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の本宮殿。1385年に建築が始まったが、ルネッサンス・バロック・ロココなどの様式による度重なる増改築が行われたために、かなり複雑な構造をしている。ゲーテ・モーツァルト・ナポレオンもこのレジデンツを訪れ、華麗なる宮殿に驚嘆したという。








インドや東南アジアの神々をほうふつとさせる、貝殻で装飾されたグロット宮殿。



レジデンツ博物館内の先祖画ギャラリー。ここには、ヴィッテルスバッハ家の人々の肖像画が121枚も飾られている。



ルネッサンス様式の華麗な丸天井が素敵なアンティクヴァリウム。ここには、所狭しとヴィッテルスバッハ家の子孫の胸像が並んでいる。



10世紀からの王家の宝物が展示されているレジデンツ宝物館。宝石がちりばめられた金細工・銀細工は唾をのむ。「一つだけあげるといわれれば、」と想像した!







アルテ・ピナコテーク
世界6大美術館の一つと称されるアルテ・ピナコテークは、ルートヴィッヒ1世が、王家のコレクションを一般公開するために設立した美術館。「すべての芸術作品は、万人の目に触れなければならない」というのが彼の考えであった。ラファエロに心酔していたルートヴィッヒ1世は、イタリア・ルネッサンス絵画を収集し、王家に伝わるコレクションとともに、ここに展示した。18世紀のヨーロッパの傑作が揃い、主な所蔵品はデューラー、アルトドルファー・ラファエロ・レンブラント・グレコの作品など。特に、ルーベンスの「最後の審判」、ラファエロの「テンピの聖母」「カニジアーニの聖家族」、ダヴィンチの「聖母子」、デューラーの「4人の使徒」、フランソワ・ブーシェの「ポンパドゥール夫人の肖像」などをじっくり鑑賞できたのは、とても嬉しかった。ペーター・ブリューゲルの「怠け者の天国」には度肝を抜かれたが。








グロッケンシュピール
ミュンヘンの中心、マリエン広場に建つネオゴシック様式の新市庁舎。その中央部にそびえる塔にドイツ最大の仕掛け時計グロッケンシュピールがある。1568年バイエルン大公の結婚式を再現しており、騎士の馬上槍試合やビール樽職人の踊りが、約10分間のあいだ展開する。見ているだけで、うれしい楽しい気分になる。遠くてそれと気づかないが、人形はすべて等身大だそうだ。それでも今度行くときは双眼鏡を持っていこうと思う。






BMWミュージアム
ミュンヘンにあるBMWの聖地・BMWミュージアム。驚くほどの広大なビルの中に、BMWの歴史から最新のコンセプトカーまで展示されている。喉が渇くのを忘れて2時間ほど見学した。一回りした後、カフェで先輩先生の強ってのご希望でアイスコーヒーを注文したのだが、全く通じなかった。身振り手振り、英語とつたないドイツ語で、やっとアイスコーヒーも飲めたのであった!










ビアレストラン
この旅行の最後の夜は、マリエン広場のすぐそばにあるバイエルン料理のビアレストラン、ツム・シュぺックマイヤーでソーセージ・肉とビールで乾杯!店内はバイエルンムードがいっぱいで、自家精肉所で作るソーセージや肉料理が自慢の店。やっぱり、ビールもソーセージもメチャクチャおいしい!うまい!美味い!Lecker! Fein! Es schmeckt gut!



青空市場
帰りは夕刻ミュンヘン発・羽田への直行便。時間はたっぷりあるので朝から旧市街を散歩。お土産を物色がてら、歩行者天国となっているノイハウザー通りからカウフィンガー通り、マリエン広場へ。
マリエン広場近く、青空市場のビアーガーデンは旅行者や地元の人たちでいっぱい。皆、朝から美味しそうに飲んでいるではないか!それでは僕も!と。やっぱりメチャクチャうまい!
ビールの歴史は、ここミュンヘンで始まったという。1516年制定された「ビール純粋令」は「ビールには大麦・ホップ・水・酵母以外を入れてはいけない」と定めており、現在も守られている。この法令に従って作られたビールは、長期保存や長距離輸送には適していないので、ドイツ国内では各地の醸造所で作られた新鮮なビールが飲まれる。
ガッテン!ガッテン!!それでドイツのビールはこんなにも味と香りが濃ゆく、おいしいのか!ちなみに、国外用は防腐剤が入ってもよいそうだ。







あとがき
羽田では例のタンメン屋さん。「タンメンはうまいが、ビールがちょっとネ〜。」と感じてしまった。ミュンヘン行きの飛行機にはまだ間に合う!「その足で戻りたい!」と思った。
今回の旅行では、ビールとソーセージがこんなにおいしいものであることを教えられた。やはり、本物はすごいのである。
また、ルートヴィッヒ2世は、本当はロマンチストであり、「よい王になり、よい政治をし、国民に良い芸術と文化を知らしめたい」と思っていたに違いないが、不幸な結果となった。ルートヴィッヒ2世は、生前「自分が死んだら、ノイシュヴァンシュタイン城を取り壊すよう」に命じていたそうだ。しかし、この城が世界中から観光客を集める金の卵となったことは、とても皮肉な結果と言わざるを得ない。
「今頃は、ルートヴィッヒ2世も天国で喜んでいるに違いない」と信じている。